第四話 皇帝光臨(4)【 第四話 皇帝光臨(4) 】 こうして、様々な者たちの活躍する中、戦乱の渦へと、刻々と事態は進みつつあった。 それでも、世界はいつもと変わらず、朝がきて、昼が過ぎ、そして、夜が訪れる。 インカ軍が進軍をはじめて、はや数日が経っていた。 義勇兵たちも徐々に新たな環境に慣れてきて、分担の作業や訓練の合間には、それぞれにちょっとした小休止をとる時間を捻出できるくらいにはなっていた。 夕刻時、その日の訓練を終えたコイユールは、炊き出しの準備に向かいながら恨めしそうに棍棒を見下ろした。 そして、小さく溜息をつく。 ちっとも上達しない自分に呆れてしまう。 実際、義勇兵たちのうちから戦線に出られる者は、その訓練の成果をインカ軍の専門兵から認められた者だけだった。 もともと運動神経のよいあの黒人青年ジェロニモなどは、早い段階でその腕を認められ、既に戦線に参戦していた。 トゥパク・アマルら中枢部の者からすれば、義勇兵の大切な命の保護を考えての配慮によるシステムであったが、コイユールのような認められぬ者にとっては、少なからず虚しさを覚えさせられるものだった。 何か、自分が無力で、存在価値が無く思えてきてしまう。 コイユールは、人気の少ない道端で足を止めると、再び、溜息をついた。 それから、考え深気な目になって、ゆっくり顔を上げる。 暮れかけの夕焼けの今日の空は、どこか不気味に赤黒く、いつにも増してその胸をざわめかせる。 トゥパク・アマルら軍の中枢からは、末端のコイユールたち義勇兵にも、各連隊長を通して、インカ軍の状況について刻々と詳細な情報が伝えられていた。 また、トゥパク・アマル自身が義勇兵の天幕近くまで下りてきて、現状の報告及び士気を高めるための演説を行うこともあった。 その日も、先刻、トゥパク・アマルは義勇兵たちが訓練している広場近くの壇上までやってきて、参戦している者も、参戦せずとも背後で支えているコイユールのような者にも、義勇兵たち一人一人に包みこむようなあの眼差しを送りながら、その労をねぎらい、現状の報告を行った。 そのような時のトゥパク・アマルは、常にインカ皇帝さながらの威風堂々たる輝きを放ち、見る者、聞く者の心に希望を燃え立たせるごとくに熱く語り、その強気にさえ見える姿勢を決して崩さなかった。 そんなトゥパク・アマルの先ほどの姿を思い出してコイユールは深い感動を覚えつつも、しかしながら、今、改めて、彼の報告した現況を分析してみる。 一見、勢いを増しながら着々と進軍を行っているかに見えるインカ軍ではあったが、事態は決して楽観できるものではないことを、コイユールは察することができた。 キスピカンチ郡の逃走した代官が本当にクスコに到達すれば、いよいよ本格的なスペイン軍との激突になるはずだ。 避けられぬ激しい流血の時が、確実に近づいていることは明らかに思われた。 コイユールは、再び、まるで血のような色の空を見た。 直観力の鋭い彼女の脳裏に、血生臭い、ひどく不穏なイメージが急激に湧き上がる。 コイユールは自分の不吉な想念を振り払うように、思い切り頭を振って、それから、きっ、とした目でその不気味な空を見返した。 そして、再び瞳を閉じ、頭の中からその嫌らしい血のイメージを押し出すように、光のイメージを脳裏に描いていく。 それから、インカ軍が布陣を敷いているこの一帯の地域を心に思い描き、それに向かっていつものように太陽と月のシンボルをイメージで描き、秘伝のマントラを3回唱える。 すると、イメージの中で、光が全軍を包んでいく様子が感じられる。 いつにも増して、熱心にコイユールは光を送った。 さらに、彼女は閉じた瞼の中に、全軍の指揮者、トゥパク・アマルをイメージする。 そして、彼に向けて集中的に光を送る。 トゥパク・アマルにしてみれば、義勇兵の天幕の片隅で、そのようなことをしている者がいるなど知る由もないだろう。 しかし、コイユールはトゥパク・アマルに光を送ることで、それは、すなわち特殊な波長で相手にアクセスすることであり、従って、逆にトゥパク・アマルの様子を逆輸入的な情報として感じ取ることができた。 それは、もちろん、直感的なイメージのレベルのものなのだが、その感触が時によって、あたたかかったり、冷たかったり、柔らかかったり、硬かったり、そんなふうに彼女のイメージの中に届けられてくるのである。 そして、今、彼から送られてくるイメージは、コイユールが想像していた通り、決して明るい感覚のものではなかった。 むしろ、冷たく、硬い感触が伝わってくる。 表面には決して出さぬトゥパク・アマルの不穏な心境が、読み取れるように思われた。 コイユールはさらに意識を集中した。 いっそう深くまで読み取っていく。 すると、その暗いイメージのさらに奥深くで、それとは全く逆のイメージが…――眩(まばゆ)い強烈な光の塊が激しく燃え上がり、煌々と輝き渡るさまが、彼女の脳裏に電流のごとくに流れ込む。 それはイメージの中でさえ直視できぬほどの眩しさで、思わず、閉じた瞼の中で目をそらした。 コイユールの鼓動が急激に速くなる。 慌てて呼吸を整え、それから、再び息詰めて、その光に意識を向けた。 今、その鮮烈な閃光は、その表面に覆いかぶさるがごとくになっていた、冷たく、硬いものを、まるで炎が鉄を溶かすかのように、ジワジワと消し去っていく…――!! コイユールは、ハッと目を見開いた。 高揚感が高まり、頬が高潮する。 彼女は己を落ち着かせるように、片手を速まる胸に、そして、もう片手を火照った頬に、ぐっと押し当てた。 それから、まるで赤黒い空に挑むように、再び、きっ、とその清い瞳で上空を見返した。 「トゥパク・アマル様は、やはり強いお人! 必ず、インカを守ってくださる!!」 そう天空に向かってきっぱり言うと、その言葉を自分の中にも染み込ませるように深く噛み締めた。 それから、コイユールは再び瞼を閉じ、そっと胸の前で手を組んだ。 そして、ゆっくりと、その意識を別の人物へとシフトさせていく。 (アンドレス…!) 心の中で呼びかける。 ふっとアンドレスの面影が脳裏によぎる。 その途端、先ほどにも増して胸の鼓動が速まって、コイユールはとっさに目を開けた。 そして、再び小さく溜息をつく。 義勇兵に加わってからというもの、いつもこうだった。 アンドレスのことをイメージし、光を送ろうとしても、自分でも説明のつかぬ雑念が邪魔をして、決してうまく行うことができない。 まだ高まっている鼓動を感じながら、微かに揺れる瞳で見つめる夕陽は、既に群青色の夜闇に溶けつつあった。 コイユールは観念したように深く息を吸い込むと、アンドレスへ向けていた意識を、故郷の祖母へと移していく。 (おばあちゃん…! どうか、どうか、元気で暮らしていて。) 祖母のもとに光を送る彼女の閉じた瞼から、微かに光る涙が滲む。 遠目から見ると、コイユールの姿は、空に向かって瞼を閉じたまま、まるで放心しきっているように危うげに見える。 そんな彼女の傍に、仕事に一区切りつけたマルセラがゆっくりと近づいた。 「コイユール!」 ハッと目を見開いて声の主を振り返るコイユールの瞳の中で、すっかり隊長補佐的な役割が板についたマルセラの変わらぬ闊達な笑顔があった。 コイユールも、何となく安堵を覚え、微笑み返す。 それから、彼女はアンドレスのことは心の隅にそっと隠したまま、もう一つの懸念をマルセラに尋ねてみる。 「キキハナの代官は、捕まえられそうなのかしら? それとも、反乱のこと、クスコに知られてしまうのかしら?」 マルセラはやや難しい目をして、「まだ、代官は捕まっていないらしいけど…。」と答える。 見合わせる2人の表情に、不安気な影がよぎる。 しかし、マルセラはその瞳に再び力を宿してコイユールを見つめ、彼女の叔父であるビルカパサを思わせる毅然とした張りのある声で話す。 「いずれにしても、スペイン側に知られるのは時間の問題だったし、ね。 どのみちスペインの討伐軍と戦うことになるのは、トゥパク・アマル様もはじめから計算に入れてのことだから。 だって、そのために、あんなに何年間もかけて同盟者を増やして、準備してきたのだもの!」 そして、ビルカパサ似のその凛々しい瞳で改めてコイユールを見つめ、青年のような眼差しで微笑んだ。 「あんたが、そんなに心配しなくって大丈夫よ。」 コイユールは、マルセラの頼もしげな眼差しに深く頷き、微笑み返す。 本当に、この短期間に、マルセラはインカ軍の一人の長に向けて急速に成長しつつあるのだと、改めて感じる。 「それより…。」と、マルセラは、少々ためらいがちな声音に変わって、コイユールをしげしげと眺めた。 「コイユール、アンドレス様と会った?」 いきなりマルセラの口から「アンドレス」の名前が出て、コイユールは口から心臓が飛び出しそうになるほどドキンとして、身を竦(すく)めた。 そして、ためらいがちに小さく首を振る。 マルセラはやや難しい表情をつくった。 「あんたが叔父様の連隊に加わってること、私、ずいぶん前にアンドレス様に伝えたんだけど。」 コイユールは息を呑んだ。 それじゃ、アンドレスは、自分がここにいることを知っているのだ…――!! 鼓動が早鐘のように打ちはじめる。 マルセラは再びコイユールを見て、「アンドレス様も、いくら忙しいからって、ちょっとくらい、あんたに会いにきてもいいはずじゃない?」と、本当に訝(いぶか)しそうに首をかしげた。 マルセラは、コイユールが義勇兵に加わっていることを伝えた時、アンドレスが確かに嬉しそうにしていたと感じていただけに、いっそう首をひねった。 もちろん、アンドレスに対して自分自身も特別な感情を抱くマルセラにとって、あの時、コイユールのことを知ったアンドレスの過剰な反応に複雑な心境を抱いたことは事実だった。 しかし、竹を割ったような性格のマルセラは、嫉妬のような感情を抱くタイプではなかった。 事実は事実として受け留める、そうした潔さを備えていた。 ただ、マルセラ自身も、まだこの時は、コイユールの気持ちも、アンドレスの気持ちも、よく分かってはいなかった。 そのため、マルセラは、ただ純粋に思うがままを口にした。 「だって、あんただって、もう何年も会ってないんでしょ。 以前は、あんなに仲良さそうだったじゃない。 せっかく、今、こんなに近くにいるのにさ。」 コイユールは自分でも説明しきれぬ動揺を感じながらも、確かに、マルセラの言葉の一つ一つに、その胸はひどく痛んでいた。 本当に、こんなに近くにいるのに、どうして一度も会いにきてくれないのだろう。 でも、今や連隊長として重責を担っている身なのだし、それどころではないはずだわ。 だけど、一言くらい…あっても…。 まさか連隊長ともあろう者が、一義勇兵に会いにくるなんて、他の人の目もあるのだから。 でも…、人目につかずに、ちょっと声をかけるくらいできそうなものなのに…。 いえいえ、こんな大事な時に、自分などに構っていられるはずはないでしょう。 それとも…自分のことなど、もしかして、本当に忘れてしまったの…? コイユールの中で、二人の自分が矢継ぎ早に声を上げる。 いつの間にか無意識に下を向いてしまったコイユールに味方するように、マルセラは大きく溜息をついた。 そして、「アンドレス様も、せめて一言あんたに何かあってもいいだろうに。意外と冷たいお人なんだね。ちょっと見損なったな。」と乾いた声で言って、全く本心から眉を顰(ひそ)めた。 その晩、コイユールは先刻のマルセラとのやり取りにずっと心を占められたまま過ごしていた。 すっかり夜も更け、そろそろ多くの兵は天幕の中で就寝に入る頃である。 コイユールも、天幕の下でその身を横たえていた。 しかし、とても眠れる気分ではないし、静かに横たわっていると、かえって余計なことばかり考えてしまいそうだった。 今が、インカ軍にとって、いかに緊迫した状況下にあるのかを理性ではよく認識していた。 今は、心を一つに、インカの民の復権のために、心を一つに、そのことだけに心を集中しなければならないはずだ。 それなのに、今の自分の心は、一体、どこを向いてしまっているのだろう…!! コイユールは横たわっていた身を、素早く起こした。 そして、そのまま天幕をそっと抜け出し、片付けを先ほど済ませたばかりの炊き出し場に向かった。 時々、インカ軍の警護の者が松明を片手に巡回しているくらいで、辺りはすっかり静かになっている。 彼女は炊き出し場の一隅に積まれているジャガイモの方へ向かい、それらを大きなカゴに入るだけ入れた。 どのみち、近いうちにしておかねばならぬ作業なのだ。 それは、この地域の保存食「チューニョ」をつくるために、ジャガイモを野ざらしにし、霜で凍結させる作業である。 実際、晩春の、まだ気温の低い夜のうちにやらねばならぬことだった。 どうせなら、眠れぬ今、やってしまおう。 幸い、今夜は冷え込みも厳しいし、作業にはうってつけの夜だった。 コイユールはカゴいっぱいに積み上げたジャガイモを炊事場から運び出すと、天幕が張り巡らされている界隈から離れ、訓練場の端の方にある空き地に向かった。 空き地の入り口付近で警護に当たる険しい目つきのインカ兵が、鋭い声でコイユールを呼び止めた。 「こんな夜中にどこに行く。」 コイユールは重そうなジャガイモのカゴを抱えたまま、兵の方に頭を下げた。 「チューニョをつくるために、空き地の隅にジャガイモを野ざらしに行くだけです。 すぐに戻ります。」 兵は、コイユールとジャガイモとを見交わして、「こんな夜中にせずとも。」と訝しげな目をしてはいたが、「では、すぐに戻ってくるように。」と、通してくれた。 コイユールは、もう一度、頭を下げてそこを通り抜けた。 空き地の隅に着くと、ジャガイモと一緒に持ってきた蓆(むしろ)を敷き、その上にジャガイモを丁寧に並べはじめた。 まだ冷え込みの強い季節のうちにこの作業を終えておくことで、貴重な保存食、チューニョを作ることができるのだった。 チューニョはアンデス地帯に古来から伝わる伝統的な保存食で、冷え込みの強い夜間のうちにジャガイモを野ざらしにして霜で凍結させ、その後、真昼の強い日差しで解凍させることを3~4日繰り返し、最終的に、しっかりと足で踏みつけてよく脱水することによってできあがる加工食品である。 晴れた空に輝く月明かりがコイユールの手元を照らし、その作業の進行を助けてくれる。 黙々とジャガイモを並べているうち、心の平静が少し戻ってくる。 半分ほど並べ終えると、彼女は冷気に凍える手を軽くこすり合わせた。 そして、手元を照らしてくれる月に感謝するように、白い月を優しく見上げた。 手の平をそっと開くと、その中に月の静やかな白い光が満たされる。 その手の中の美しい光に見入る彼女の傍を、深夜の冷たい風が静かに吹き抜けていく。 まるで精霊でも現われてきそうな、幻想的な雰囲気の漂う夜の風景だった。 いっそう幻夢を誘う夜風が、周囲の草木をそっと揺らしていく音がする。 コイユールは、その優しい音に耳をすませた。 精霊の声が聞こえるかもしれない、そんな気持ちで。 そんな彼女の耳元に、風の音にしては、やや趣の異なる規則的な音が微かに響いてきた。 それは、何か、まるで空(くう)を鋭く切るような音である。 その音の方向に視線を動かす。 空き地の少し先にある高台の一角で、美しい構えでサーベル片手に、一人、素振りの練習をしているのは…――。 それは後姿ではあったが、コイユールには、すぐにそれが誰か分かった。 (アンドレス…!!) コイユールの視線は、その姿に釘付けられた。 時が止まったように思える。 周囲には、本当に、二人以外は誰もいなかった。 しかも、少し大きな声で呼べば、十分に声が届く距離である。 コイユールの心臓は、早鐘のように激しく打ちはじめた。 手足が微かに震えてくる。 釘付けられたままの彼女の瞳の中で、アンドレスはこちらに背を向けたまま、幾度も、幾度も、ただ黙々と、一刀一刀に渾身の思いをこめるようにサーベルを振っていた。 素人の彼女の目にもわかるほどに、それは、本当に、力強くも美しい動きだった。 あの少年の日、アンドレスの瞳の中に燃えていた蒼い炎が、彼の全身から発せられているのを、コイユールは今、はっきりと感じ取ることができた。 コイユールは切なさと共に、否、それ以上に、何か感極まるものを感じて、胸が熱くなるのを覚えた。 彼女は揺れる恍惚とした瞳で暫しアンドレスの姿を見つめた後、そっと瞼を閉じて、その後ろ姿にむかって心の中で指を組んで祈りを送った。 インカの民の解放、その共通の願いが、あのまだ幼かった二人の心を結び合わせた懐かしい日々。 そして、今、その同じアンドレスは、それに相応しい一人の武人に成長して、あのインカ皇帝にも等しきトゥパク・アマルの信頼のもとで、確実に、かつての願いの実現を形にしつつあるのだ。 アンドレスが己の道を真っ直ぐに進んでいるように、自分も、自分なりにできることを精一杯するのみなのだ。 物理的な距離がどれほど遠くとも、傍で感じられなくとも、大事なことは、そんなことではないはず。 コイユールは、うっすらとこみあげた涙をつい泥のついた指先でぬぐってしまい、泥が顔についてしまうと、ちょっと慌てながら夜闇に感謝する。 それから彼女は、音を立てぬように注意深く残りの作業をすませてしまうために、再びジャガイモに視線を戻した。 一方、コイユールが作業に再び戻ると、アンドレスは気配を感じ取られぬように、そっとその動きを止めた。 気配を読み取ることにも既に長けているアンドレスにとって、眼下の空き地に人が入ってくれば、瞬時にそれは分かった。 当然ながら、偶然にも、それと気付かず自分の方向にやってくるコイユールの姿を、彼もまた、心臓が止まる思いで高台の上から見ていたはずである。 そして、ついにコイユールが自分に気付き、見つめるその視線を感じながら、しかし、アンドレスはその視線に応えることはできなかった。 彼は、コイユールがしたように、相手を真っ直ぐ見つめることもできぬまま、ただ後ろ姿のままで、しかし、彼女の気配だけはしっかりと感じ取りながら、ただ気付かぬふりをしてサーベルを振るしかなかったのだ。 今や、アンドレスは、コイユールを一人の女性として強く意識している己の心を、はっきりと自覚していた。 しかし、今の彼には、己の立場と、任務と、責任と、そして、己の心とのバランスを、一体どうとったらよいのかまるで分からなかったし、この状態でコイユールとひとたび身近に接したら、ギリギリに保っているバランスを崩してしまいそうで非常に怖くもあった。 今、こうしていてさえ、サーベルを握る指も、既におぼつかない。 そんな自分を感じると、アンドレスの心はいっそう落ち着かなく、ひどく不安になった。 彼はそのまま逃げ去るように、完全に己の気配を消したまま、決して振り向かずにその場を立ち去った。 その同じ頃、トゥパク・アマルもまた、一人、天幕を抜けて深夜の白い月を見ていた。 滑らかなその月の光は流れるように地に注ぎ、彼の漆黒の影を静かに引いていく。 真夜中の木立を吹きぬける冷風に揺られながら、さやさやと繊細な音を立てる木の葉にも、月明かりが濡れたように反射している。 彼の長い黒髪が、風の中に溶け込むように静かに舞っている。 辺りは実に幻想的な眺めだった。 戦乱の足音が着実に近づいているというのに、この静けさは何だろう。 いずれが夢か現(うつつ)か分からなくなりそうだ。 嵐の前の静けさ、さしずめ、そのようなところであろう。 トゥパク・アマルの思念に呼応するがごとく、突如、静けさを破って甲高い 声を発し、一羽の黒い鳥が茂みの中から上空指して飛び去った。 彼は飛び去る鳥の黒い影を目で追った。 黒い影は、深い藍色をした夜の天空に吸い込まれるように消えていく。 それは、かのインカ帝国の旧都――クスコがある方角だった。 トゥパク・アマルは、直観した。 クスコに、反乱の情報が伝わったに相違ない。 再び険しい目つきのまま上空を見つめる彼の全身に、追い討ちをかけるがごとく、一陣の強風が吹きつける。 彼の纏う黒いマントが、巨大な漆黒の翼のように、バサリと音を響かせながら大きく風の中に翻った。 いよいよ戦闘の真の幕開けだ…――!! 月明かりをその美しい目元に反射させながら、強い決意を秘めた横顔で、トゥパク・アマルは天頂を振り仰いだ。 ◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ第五話 サンガララの戦(1)をご覧ください。◆◇◆ |